◆ベートーヴェン: 弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 作品132 ◆
この最も調和に満ち神秘的な、しばしば第九交響曲とも対比される弦楽四重奏曲は、真のベートーヴェンの「後期」作品だといえるだろう。第15番作品132となってはいるが、第12番作品127の直後に作曲された。この曲の第1楽章と第4楽章だけがおおむねでき上がった時点で、ベートーヴェンは重い腸疾患に見舞われ、死線を彷徨う。運良く回復できた彼だが、「小さくくぼんだ顔、立派な口は弱々しく悲しそうだった」と当時ベートーヴェンのもとを訪れた詩人の記述からもうかがえる大きなダメージだった。そのなかで生まれた第3楽章「病気の癒った者が神に感謝する聖なるうた」、そして回復期であることを実感させる第2楽章の田園の美しさを再認識するかのようなスケルツォと、いよいよここで最晩年のベートーヴェンは形成される。
第1楽章冒頭で「ひとつの暗い預言を持った言葉、神秘に満ちた神託(ベッカー)」が私達を神殿の中に誘う。作曲技法で分析するなら、隣接する二音で構成され、その二音は全曲を通しての曲の要となる。この序奏の後、もはや楽器の音色を離れ、人間の肉声と化した一大叙事詩だ。第2楽章のひねりにひねった自然讃歌で現実離れした私達は、ミュゼット風の中間部「星々のファランドール(ロマン・ロラン)」で地上を離れる。第3楽章がいよいよ「感謝のうた」。重い病に死の影を見てきた彼は、計り知れない太古の力を身近に感じたのではないだろうか。教会旋法の中でも最も天国的なリディア調で、感謝のコラールを三度歌う。「新しい力を感じつつ」と書きつけられた、ひばりの声に導かれるニ長調の人間ベートーヴェンの純粋な喜びが挿入される。言葉をはるかに凌ぐ音楽の表現力、その内容に私達は頭を垂れずにはいられない。第4楽章は行進曲風のスケルツォで私達は人間界に一挙に引き戻される。これを独立の短い第4楽章と位置付けるか、大きな4楽章形式のフィナーレの序奏とするか、「後期ベートーヴェン」は分類好きな私達を翻弄する。そして訪れるのが、第九交響曲を思わせる宗教的なレチタティーヴォに続いて、運命を受け入れた悲しみの輪舞のフィナーレ。かつて第九のためにスケッチし、使用しなかったモチーフをベートーヴェンは、ここに弦楽四声部で実現させる。ロマン・ロランは「魂の闘争」とこの音楽を表現している。
この四重奏曲の美しさは当時の人々を感動させ、何度も再演される大成功をおさめた。ロマン・ロランはいう。「何という勝利だろう!ベートーヴェンの作品中、おそらくは最も難解で、最も深遠な曲がこれほどの勝利を博したのである。」
解説:三戸素子